幕末に起きた2つの寺田屋事件 その舞台・京都伏見に今も残る痕跡
「寺田屋事件」としてよく知られているのは、坂本龍馬が襲撃された事件ではないでしょうか。
しかし実はこの寺田屋ではもう一つの「寺田屋事件」が起きているのはご存知ですか?
京都伏見の中書島駅周辺には、その2つの事件の痕跡が今も残っています。
今回はその痕跡を3つご紹介いたします。
この記事の目次
京都伏見で島津久光が薩摩藩の過激派を鎮座した薩摩藩志士粛清事件
この事件は「寺田屋騒動」とも呼ばれています。
当時の薩摩藩主の父であり事実上の指導者であった島津久光は、幕府の滅亡を願う尊皇派の希望を背負っていました。
しかし久光には実は倒幕の意志はなく、幕藩体制の再強化をはかる公武合体の路線を目指したのです。
その展開に驚愕した薩摩藩の過激派は、諸藩の尊皇派の志士と共謀して無理やりにでも蜂起を起こそうと試みました。
この動きを噂に聞いた久光は、藩士を説得して抑えようとしましたが止められなかったので、蜂起が起きたとき鎮座するよう剣術に優れた奈良原喜八郎ら9名の藩士を伏見に派遣しました。
そして、文久2年(1862年)4月23日。
薩摩藩過激派は寺田屋で蜂起のきっかけとして、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃してその首を持って久光に奉じる計画を立てていました。
そこに奈良原喜八郎らが現れ、激しい斬り合いが始まったのです。
結果、過激派が鎮圧され、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かうこととなりました。
この騒動で命を落とした薩摩藩過激派の9名の志士たちは「九烈士」と呼ばれ、そのお墓が寺田屋から徒歩10分ほどの大黒寺にたてられています。
上の写真の右に写る碑文は、西郷隆盛直筆のものです。
西郷隆盛の志士たちを想う気持ちが伝わってきますね。
これが一つ目の寺田屋事件です。
伏見奉公の役人に坂本龍馬が襲撃されたあの事件の刀痕が残る寺田屋
二つ目の寺田屋事件は、あの坂本龍馬襲撃事件です。
先ほどの寺田屋騒動からおよそ4年後のこと。
慶応2年(1866年)1月23日、京での薩長同盟の会談直後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が暗殺しようと襲撃しました。
寺田屋1階のお風呂に入っていた竜馬の妻・お龍は、寺田屋が何者かに囲まれていることにいち早く気づき、裸のままお風呂から出ました。
そして急いで裏階段を駆け上がって2階へ。
龍馬らに危機を知らせました。
寺田屋には当時の写真や資料だけでなく、寺田屋事件の際できた刀痕も残されているので、臨場感を味わいながら幕末の歴史を体感できますよ。
襲撃された坂本龍馬が寺田屋から脱出し避難した京都伏見の材木屋跡
襲撃された龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で戦いましたが、捕り方が拳銃を持つ手を刀で払おうとして、龍馬は手の親指を負傷してしまいました。
拳銃を使うことができなくなった龍馬は、仲間である長州の三吉慎蔵が必死に槍で応戦する間に、辛くも家屋を脱出して路地を走り、材木小屋に隠れました。
その材木小屋は今では残されていませんが、その場所には石碑が立てられています。
間一髪で脱出した龍馬は、この橋を渡ってここで身を隠していたのでしょうか。
その後龍馬は川船で救出され、九死に一生を得ることができました。
ここ伏見には龍馬にまつわるスポットが他にもたくさんあります。
痕跡をつなぎ合わせていくと、当時にタイムスリップした感覚になりますよ。
この2つの寺田屋事件が起こった京都伏見。
その足跡をたどりながら、常に生を脅かされていた幕末の志士たちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
■所在地
[大黒寺]京都市伏見区鷹匠町4
[寺田屋]京都市伏見区南浜町263
[材木小屋跡]京都市伏見区過書町(大手橋西詰北側)