豊臣秀次が情熱をかけた商人のまち近江八幡 秀次と名残深い歴史旅
1585年当時18才だった豊臣秀次は、八幡山を居城と決め城下をひらきました。
現在の、滋賀県近江八幡です。
このときから近江八幡は歴史の表舞台へとおどり出していくのです。
今回はそんな近江八幡の、秀次と関わりが深い場所をご紹介していきます。
この記事の目次
徳川家康も泊まった 豊臣秀次によって移築された本願寺八幡別院
まず訪れたのは近江八幡駅からバスで5分、本願寺八幡別院です。
ここは八幡城下町を開いた豊臣秀次によって、安土城の城下町から移築した浄土真宗本願寺派の寺院です。
徳川家康も1601年の上洛の際、この寺に泊まったそうです。
江戸時代には朝鮮通信使の一行が近江八幡を通る際の昼食所としても使われました。
門をくぐると大迫力のお寺が目の前にあります。
門自体もとても大きく、この迫力は現地でしか感じられないものだと思います。
右手には親鸞聖人之像。
左手には蓮如上人之像があります。
周りには住宅が並ぶ中、この寺だけはいつまでも当時の姿のまま残っているのは大変価値のあるものだと感じます。
寺には、1711年に寺に立ち寄った通信使の従事官・李邦彦の書が保存されています。
これは、日本での任を終え帰路の途中で祖国に対する望郷の念を綴ったものです。
いまも近江八幡の地を見守る八幡山城主秀次像 春には桜も 八幡公園
つづいて、本願寺八幡別院から徒歩10分のところにある八幡公園に訪れました。
この公園は1930年に、御大典を記念して八幡山山麓に完工されました。
公園内には近江八幡のまちをつくった、豊臣秀次の像があります。
秀次は1568年に尾張の国(現在の愛知県)で生まれました。
秀吉の甥として生まれましたが後に養子となります。
1585年18才にして八幡山城主となり、城下町を開きました。
自由商業都市をめざした秀次は、わずか5年のうちに商いのまちとして繁栄の基盤をつくったのでした。
後に秀吉に実の子が生まれ、後継者争いにより自害させられた秀次ですが、彼のまちづくりにかけた情熱は、今もこの近江のまちに受け継がれています。
山の上にある秀次の像は、今でもまちを見守っているような雰囲気でした。
公園内には、近江商人として海外で活躍した西村太郎右衛門の供養塔もたてられています。
春には桜やツツジが咲き、市民の憩いの場として賑わいます。
商人のまちとして有名な近江八幡にあるここ八幡公園はいろいろな思いで人があつまる場所だと感じました。
近江八幡のシンボル八幡堀 商人の町として発展した秘訣はここにあり
近江八幡駅からバスで6分、大杉町で下車します。
八幡堀は幅約15m、全長6kmにも及ぶ、戦国時代につくられた人口の水路です。
当時、一般的には、堀は城を防御するために使われていましたが、豊臣秀次はこの八幡堀を運河として利用することを考えました。
八幡堀により船や人の往来が増えたことで商業が発達しました。
実際に見る八幡堀は本当に風情があり、歴史を感じます。
日本で一番おそい乗り物として、元祖手こぎの舟、水郷めぐりも観光客をはじめたくさんの人に親しまれています。
八幡堀を見るおすすめスポットは、八幡公園の近くにある「明治橋」と「かわらミュージアム」裏手にかかる橋付近です。
どちらもドラマなどのロケ地としても使われています。
1955年頃高度経済成長期に入り、人々の生活が変化する中で、次第に八幡堀に対する市民の関心が薄れ、埋め立てられようともしたそうです。
しかし、「八幡堀は埋めた瞬間から後悔が始まる」を合言葉に、市民が立ち上がり清掃活動に取り組み、いまでも市民のみなさまによりかつての姿が保たれています。
是非、実際に訪れて、肌で風を感じ、水の流れをきき、風情あふれる八幡堀の姿を見ていただきたいです。
いかがでしたか。
秀次がつくった商人のまち、近江八幡は今もその姿を色濃く残しています。
そして変わらない姿で守り続けようとまちの方々は努力されています。
秀次のまちづくりにかけた情熱を、是非現地で体感してみてください。