南北朝時代から続く打吹山にふれる旅
「白壁土蔵群」を見たい!と鳥取県倉吉にご旅行する予定のある方。
白壁土蔵群を見た後のプランはお考えでしょうか。
今回は白壁土蔵群から歩いていける、倉吉のシンボル「打吹山(うつぶきやま)」、打吹山周辺をご紹介します。
白壁土蔵群を散策した後は 城跡残る打吹山へ
倉吉のシンボルともいわれる打吹山は、観光名所 白壁土蔵群の南にあります。
標高約204m、スジダイをはじめ多くの木々が生い茂る原生林です。
かつて打吹城が築かれたこともあり、周囲を確認するための櫓台(やぐらだい)や、石垣なども残されています。
打吹城は、南北朝時代に倉吉を支配していた山名氏が築城しました。
その麓には城下町も形成され、市も開かれて活気づいていたそうです。
この頃、現在の土台となる町の形が整えられました。
ところが江戸時代に入り、一国一城制が布かれて打吹城は廃城となります。
幕府の命によって、倉吉は周辺地域の行政を担う「陣屋町(じんやまち)」に。
陣屋町となった後も、城下町の頃に見られた繁栄は衰えることなく続きました。
そして商品経済の浸透とともに、倉吉は商工業都市として発展していったのです。
頂上までは約40分ほどなので、白壁土蔵群を散策した後でも気軽に登頂できます。
打吹山の山頂には展望台が設置されています。
展望台からは倉吉市街地を一望。赤瓦が連なる白壁土蔵群も眺めることができます。
打吹山は城の機能を失ってからも、人々が行き交う、にぎやかな倉吉を見守ってきたのかもしれませんね。
打吹山に伝わる悲しい天女伝説と羽衣池
山城であった打吹山ですが、実は「打吹」という名称は、ある切ない伝説から来ています。
昔、一人の男がおりました。
男は池で天女が水浴びをしているのを見つけます。
男は天女に恋をし、脱いであった羽衣を隠してしまいます。
天に帰れない天女は男の女房になり、二人の子を授かりました。
ある日天女は男が隠した羽衣を見つけ、羽織ってみると…
今まであった親子の愛情が薄れ、子どもを地上に残したまま天へ飛んで行きました。
二人の子は悲しみ、近くの山で笛を吹きや太鼓を打って母親に呼びかけます。
しかし母親の天女に戻ることはありませんでした。
この伝説に出てきた二人の子が登った山こそが、打吹山です。
そんな悲しい物語にちなんだ場所が、麓の「打吹公園」にあります。
こちらが物語にちなんで名づけられた「羽衣池」。
羽衣池では「ほどき紙」を浮かべることができます。
ほどき紙とは、紙に忘れたい過去とこれからの願いを書いて池に浮かべると、紙と一緒に過去が水に溶け、新しいスタートを切ることができるというものです。
ほどき紙は白壁土蔵群にある赤瓦一号館で、400円でお守りとセット販売されています。
白壁土蔵群を散策された際に、購入しておくといいですね。
打吹山周辺の見どころ2選~飛龍閣と打吹団子~
羽衣池がある打吹公園は、大正天皇が皇太子のときに山陰地方を訪れる記念にと整備されました。
そのため打吹公園周辺には、大正天皇にまつわる見どころがあります。
まずこちらは園内にある「飛龍閣(ひりゅうかく)」という建物。
1904年に皇太子であった大正天皇が滞在する施設として建てられました。
京阪神からはるばる資材を運び、職人が丹精込めて造ったそうです。
2011年には国の有形文化財に登録されました。
皇居とは違う、「静かな別荘」という雰囲気が漂う飛龍閣ですが、現在レンタルスペースとして活用されています。
そしてもう一つ。
白壁土蔵群のショップなどで販売されている「打吹公園だんご」です。
打吹公園だんごは、皇太子に献上された際に記念として名付けられました。
添加物を使っておらず、やさしい味になっています。
1985年の「科学万博つくば’85」で設けられた大茶会にも提供されました。
大茶会での反響もあり、1986年から「日本伝統文化・ベルサイユ展」のお茶会や「ワシントン桜まつり」など海外へ進出していきました。
いまや世界でたしなまれている打吹公園だんご。
ぜひ一度ご賞味くださいね。