自然豊かな山梨県のローカル線「身延線」の歴史をひも解き魅力に迫る
皆さんは山梨県の身延(みのぶ)をご存知でしょうか?知っている皆さんは身延にどのようなイメージを持っていますか?
身延を知っている人の多くは「身延山久遠寺」へと足を運ぶ人がほとんどではないでしょうか。
しかし、身延には久遠寺の他にも歴史が深い場所が多くあるのです。
今回は、そんな魅力溢れる場所を身延線沿線から紹介します。
この記事の目次
東京から約3時間でたどり着く山梨の「身延」とは? 町の歴史を辿る
山梨県身延町は、山梨県の南部に位置し面積131.12平方キロメートル、人口8,014人からなる門前町です。
富士川を挟んで東西それぞれに急峻な山岳地帯が連なっており、新町の北にはなかとみ和紙の里が、南には身延山久遠寺が、東には下部温泉郷や富士五湖のひとつである本栖湖があります。
特産品には湯葉や和紙が挙げられ、町内では湯葉を使った丼ものやカレーを食べることができたり、和紙を実際に漉くという体験ができます。
古くから信仰の地として、また富士川舟運の拠点として栄えてきた身延は、今も歴史の面影を色濃く残しています。
町中に沢山の自然が溢れ、歴史を感じさせる建物が多くあるので老若男女問わず楽しめる癒しの地となっています。
山梨のローカル線 「身延線」が苦難の中紡いできた歴史を紐解く
身延線とは、静岡県富士市と山梨県甲府市の総延長88.4キロを結ぶJR東海の地方交通線です。
身延線沿線の駅数は合計38駅あり、地域の人々には車の次に欠かせない大事な交通手段の一つとなっています。
身延線には深く、苦しいながらも必死に紡いできた歴史があります。
身延線の前身であった私鉄の富士身延鉄道は、戦国時代まで今川義元が治めていた駿河と武田信虎が治めていた甲府の間では富士川沿いの富士川舟運による物流が盛んで、明治中期には最盛期を迎えていました。
1901年に開通した中央線により舟運の相対的地位は低下したものの、山梨・静岡の支持者や若尾民造らの支援者を得て駿甲鉄道敷設計画として存続しました。
その後も資金不足による挫折や国営化への変遷、さらに関東大震災により身延以北の建設が困難になってしまうなど数々の困難に直面してきましたが、富士身延鉄道により1928年に全通、そして現在のワンマン運転の実施にまで至りました。
現在の形に至るまで沢山の人々と、更にいえば地域の人々と共に歴史を歩んできた身延線は、様々な思いが詰まっている魅力的なローカル線であり、実際に乗ってみることで地域との距離の近さや歴史を感じることができます。
地元山梨の人々に愛され、地域と共に時を生きる身延線「甲斐岩間駅」
身延線富士駅から23駅目にある甲斐岩間駅(かいいわまえき)は、無人駅で駅のホームにも駅舎にも駅員さんがいません。
甲斐岩間駅は1927年に富士身延鉄道の駅として開業し、駅舎は1941年の国有化後も長らくは私鉄時代の駅舎が残っていましたが、1999年の無人駅化の後に現在の簡易駅舎に建て替えました。
地元の方によると年末になると駅に大勢の地元の人々が集まり、駅舎にしめ飾りの取り付けや掃除を行うのだそうです。
甲斐岩間駅がある六郷地区は百年の歴史を持つハンコ生産の地区であり、現在も全国の生産量の5割がここで造られているのです。
そのため、駅の近くにある公衆便所の看板の文字も、自ずと篆書体(てんしょたい)に・・・もしかしたら他にも篆書体になっている看板があるかもしれないので、探す楽しみ方もありますね。
甲斐岩間駅が無人駅にもかかわらず地域の人々に愛されているのは、地元の人々と共に歴史を歩んできたからこそなのかもしれません。
身延線をはじめ、様々な困難を地域の人々と密接に関わりながら大事に歴史を紡いできた身延にはまだまだ伝え足りないほどに歴史的魅力があります。
百聞は一見に如かずということで是非山梨県身延へと足を運んでみてください。
実際に足を運ぶからこそ身延という地が地元の人々に愛されている理由を体感できると思います。