有馬で発見 安土桃山時代の遺跡で豊臣秀吉の夢の跡 「湯山御殿」
戦国武将 豊臣秀吉にも愛された兵庫県にある名泉、有馬温泉。有馬にはいたるところに秀吉の面影が残っています。今回は、秀吉が夢みて建設した「湯山御殿」とその周辺に広がる歴史を紹介します。
この記事の目次
有馬 極楽寺から発見 秀吉が65軒の家屋を撤去し建設した湯山御殿
593年に建てられた極楽寺は有馬温泉駅から南東へ約10分歩くと到着します。
阪神淡路大震災の時にこの極楽寺の庫裏(くり)が破損し、下から秀吉が造らせた浴槽の一部などの安土桃山時代の遺跡が見つかりました。それが「湯山(ゆのやま)御殿」です。
湯山御殿は、1594年に秀吉自身のための湯治施設として建設を始めました。
御殿を建設するために、65軒の家屋を強制撤去するなど、その規模は大きかったようです。現在では、神戸市の指定文化財に登録されています。
極楽寺の横にある「太閤の湯殿館」では、その湯山御殿の遺跡が展示されています。
展示品の一つ「金色の竜の瓦」はレプリカではありますが、この湯山御殿がいかに立派であったかを象徴しているようでした。
そして、その湯山御殿のお風呂である、「蒸し風呂」や「岩風呂」は実物が展示されています。
岩風呂は、秀吉が夢見つつも、病気のため入ることのできなかったお風呂で、露天風呂であったのではないか、と言われています。
これらを約400年も前に秀吉が造らせ、実際に入っていたものもあると考えると、有馬温泉の歴史の深さを改めて実感することができます。
所在地 : 651-1401 兵庫県神戸市北区有馬町1642
公式HP : 太閤の湯殿館
豊臣秀吉の夢 湯山御殿を守る石垣とそれ見つめる「豊太閤の碑」
太閤の湯殿館の横に石垣があります。
この石垣は、割ったり削ったりしていない石材だけを用いて造られたものです。
野面積(のづらづみ)と呼ばれるもので、秀吉の活躍した1700年代後半に見られる特徴的な石垣づくりの技術です。
「湯山御殿」をこの石垣が守っていたと考えられています。
そのような約300年前から存在する石垣には、長い歴史を持つからこそ醸し出せる堂々とした雰囲気がありました。
石垣の上は帯曲輪(おびくるわ)と呼ばれる幅の狭い平坦面になっています。
曲輪とは城内の小区画のことで、帯曲輪とは名前の通り帯状に細長い曲輪を意味し、城を囲うように作られています。
太閤の湯殿館と温泉寺の間の細い道に、「豊太閤の碑」があります。
そのまま素通りしてしまいそうな道にあるので、気をつけてください。
秀吉は湯山御殿の完成を見ることなくこの世を去ったと言われています。
まるで秀吉が完成見届けることのできなかった湯山殿館を見つめているようにたっていました。
いくつ発見できる? 有馬で豊臣秀吉の馬員「 ヒョウタン」を探そう
有馬の様々なところにヒョウタンをモチーフにしたものが点在しています。
これは秀吉の馬印です。
馬印とは、武将が自らの存在を示すために掲げる長い柄の先に付けた印です。
秀吉が馬印としてヒョウタンを用いるようになったきっかけは主君信長にあります。
信長の命で稲葉山城を落城させた際、成功を外部に知らせるため、秀吉はヒョウタンを掲げました。
この出来事がきっかけで、信長は秀吉に馬印としてヒョウタンを使う許可を与えたのです。
探してみると、有馬の様々なところでヒョウタンを見つけることができます。
上の写真は、有馬温泉駅を降りてすぐの、川沿いの道にあるガードレールです。
ほかにも見つけることができるので、有馬散策と一緒にヒョウタンを探してみてはいかがでしょうか。
秀吉は少なくとも生きている間に9回、有馬を訪れたと言われています。
度々有馬を訪れ、そして実際に温泉を建設したからこそ、秀吉に関する歴史が数多く残っています。
有馬を訪れる際には、秀喜と有馬の関係についても学んでみてはいかがでしょうか。