古代ロマンの郷富山県氷見市 古墳に洞窟に 秘めたる遺跡を巡る旅
歴史旅というと寺社やお城が人気だと思いますが、富山県「氷見」には100を超える遺跡が残っています。日本海側で古墳が集中する最東端のエリアは、この氷見が中心地。
氷見市内だけでも大小400近い古墳が築かれています。今回は意外と知られぬ穴場スポット、氷見の古代ロマンを紹介します。
この記事の目次
厳しき日本海と樹林の共存 古代遺跡を守る氷見の聖域「白山社」
氷見駅から富山湾を右手に臨みながら北へ約15分ほど車を走らせると、今も漁で使われているのであろう木造の倉庫が印象的な漁港「大境の港」へ到着します。
大境の港から歩いて約2分のところに、古代遺跡を守るかのように鎮座するのは「白山社」(はくさんしゃ)です。創設された年代は不明ですが、遺跡発掘が進むずっと昔から洞窟の入り口にあったそうです。鳥居を抜けると心なしか空気がひんやりと冷たく、まるで別世界へ入ったかのようでした。
潮風に晒れた木々のせせらぎだけが響き渡っています。十数段の階段を上った先に見える神明造の拝殿は、高床の造りが珍しいものだそうです。神殿の下を覗いてみると、神社ではなかなか見かけない数多くの「大漁祈願」の旗が置かれていました。白山社は港で働く人々を見守る神社としても、地元の方から愛されているのではないでしょうか。
参拝を終えて振り返ってみると、海と樹木と鳥居の絶妙なコントラストの美しい絶景が広がっています。潮風の香り漂う海の聖域にて、記憶に残る一枚の風景を、記念に残してみるのははいかがでしょうか。
氷見が誇る国指定史跡 日本の考古学史を変えた「大境洞窟住居跡」
白山社の拝殿を進むと、山のように大きな岩の奥に洞窟が広がっています。暗く深く広がる空間が遠い昔からこのままの姿であったことを思うと自然の力強さに感動してしまいました。
大境洞窟住居跡(おおざかいどうくつじゅうきょあと)は約6000年前の縄文前期、波浪の浸食により形成された自然洞窟です。海の幸に恵まれ、雨風をしのげるこの洞窟は人々の暮らしに適していたのでしょうか。縄文中期から中世までの6つの文化層がはっきりと残っており、縄文時代から住居として利用されていたそうです。1918年、日本初の洞窟発掘調査がなされたこの遺跡は、縄文と弥生のどちらが先の時代なのか位置付けた、当時の考古学史を変えた貴重な遺跡です。洞窟内に残る幾重にも重なる地層は、光に照らしてみると色味が違います。
この地層からの出土品、特に縄文土器は弥生土器よりも下の地層から発掘されました。これより「縄文時代と弥生時代の新旧関係」が日本で初めて明確化され、国の史跡指定を受けたのです。
洞窟内は、波の音と海鳥の鳴き声だけが反響し合い、とても神秘的です。中に立ち入ることができませんが、洞窟はさらに深く、奥まで続いていました。遥か昔、この地で生活していた人々がいたと思うと、人類の進歩に驚きを隠さずにはいられませんでした。太古のロマンに是非触れてみてください。
氷見の歴史を語る上では欠かせない!日本海の覇者「柳田布古墳公園」
氷見駅から車で約10分のところにある「柳田布尾山古墳」(やなぎだぬのおやまこふん)は全国でも10指に入る国の指定史跡で、今から約1700年前の弥生時代に作られた古墳です。全長は約107.5メートルで、前方後方墳としては日本海側最大で住宅地にそびえるその姿は異彩を放っています。
上から見ると、このような形をしています。
実は氷見は日本海側でも古墳が特に密集する最東端の地で、古墳時代の列島の有力者であった大和政権の勢力図を考える上でも、重要な役割を果たしたそうです。九州から東北までに築かれた前期古墳と比しても隔絶したこちらの古墳の規模は、日本海の海上交通を掌握した首長の墓と推定されます。
柳田布尾山古墳は公園として整備されたユニークな史跡でもあります。古墳を自由に上ることもでき、富山湾と立山連峰を臨む眺めは圧巻の一言に尽きます。一見小高い丘に見えるこちらの古墳も、上を歩くと前方と後方で傾斜があったり、中央にくびれがあったりと様々な発見がありました。隣接する「柳田布尾山古墳館」にも立ち寄れば、氷見古墳への理解がより深まるのでおすすめです。そんな古墳大国氷見のNo1、さらには日本海側No1の「柳田布古墳」は、まさしく日本海の覇者とも言えるのではないでしょうか。先人の偉業をぜひ体感してみてください。
海と共に生きる富山県氷見市の遺跡はやはり、海のそばにありました。戦火をのがれたこの町には、まだまだ多くの歴史が随所に残っています。何気ない景色さえも忘れられない記憶に変わります。
この太古ロマンの郷氷見にて、先人の足跡を辿り太古に想いを馳せる、そんな旅はいかがでしょうか。