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会津戦争で亡くなった会津藩士の墓、阿弥陀寺と融通寺を紹介

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    会津戦争にて約1か月にも及ぶ籠城戦の末、これ以上藩士や会津の民を傷つけないため、藩主の松平容保は1868年9月22日に降伏を決意します。やっとの終結と安堵した矢先、戦った藩士たちの埋葬の問題で、さらなる悲劇が会津の人々を待ち受けていました。日本を背負って戦った藩士たちのお墓を訪れます。

     

     

    会津戦争終結、松平容保の降伏から始まった新政府軍の厳しい対処

     
    【会津戦争の降伏】
    会津戦争の籠城戦から1か月後の1868年9月22日の朝、ついに鶴ヶ城の北追手門には、「降参」の旗がありました。旧幕府軍が、会津戦争に負けた証でした。汚れた小さな茶色い継接ぎでできたその旗は、決して白旗とは言えず、籠城に耐えた場内がいかに厳しい状況だったかを物語っているようだったそうです。
    追手門前の通りに降伏式の会場が設けられ、松平容保と喜徳の父子は降伏式にすすみました。

     

     

    【新政府軍の厳しい対処】
    会津若松の悲劇は会津藩が降伏した後にも続きます。歴史上、新政府軍は旧幕府軍の藩士たちの遺体を埋葬することを許さず、もし命に背き埋葬した場合は、遺体が掘り起こされ野ざらしにされた歴史が伝えられています。
    また一説には、遺体の処理は権力とお金のある上級武士から埋葬されていったそうです。遺体処理人はそれらを優先するため、貧しい下級武士はなかなか遺体の処理ができませんでした。1か月、2か月と遺体が未処理のまま、やがて会津に冬が訪れ雪が降り積もります。春先になり、ようやくすべての死体が片づけられたそうです。武士にとって亡骸を野ざらしにされることは屈辱以外の何者でもありません。

     
    幕末の1868年におきた会津戦争で戦死した会津藩士のうち約567人が、藩の降伏から約10日後に埋葬されたとする史料が、2017年秋に福島県会津若松市で見つかりました。いまだ解明途中の分野のようです。とはいえ同じ故郷である日本のためと意思を貫き戦った会津の藩士や薩長の藩士たち。祖国のためにという両藩の想いは共通していたのでしょう。
    そんな私たちのご先祖様の墓に訪れご挨拶します。

     

     

    新政府軍が屯営を置いていた、西軍基地「融通寺」に行く

     
    鶴ヶ城を出発し、大通りから「あかべぇ」に乗り約5分。「大町一町目」で降ります。バス通りから横道へ入り直進すること約2分。背の高い融通寺の石碑が見えてきます。

     

    <05_aizuwakamatsu:西軍墓地石碑>

     
    突然現れるそれは、不思議と周囲に馴染んでいました。石碑を通り過ぎてまず目に入るのは公園。聞こえてくるのは向かいにある幼稚園の子どもたちの声です。公園の奥に西軍墓地があります。

    新政府軍は、ここ融通寺に屯営を置いていました。そのため戦火を免れましたが、本堂の柱には外側からの刀の傷痕が無数に残されています。ここでも戦闘があったことを物語る傷跡を見て心が痛みました。

    新政府軍は会津戦争が終結した後、自軍の藩士たちをこの地に埋葬させました。西軍墓地には、薩摩、長州、大垣、肥州、備州藩士150名の魂が眠ります。一般のお墓に隣接していますが、自由に入ることはできません。

     

    <06_aizuwakamatsu:西軍墓地の門>

     
    門にはこのように、西軍の者たちの家紋が入っています。
    緑生い茂る中、墓石は少し見づらいです。しかし、近づいてみるとそれはとても大きく、刻まれている文字の深さを感じることができます。

    激しい戦いが繰り広げられた会津では、会津の人々の命だけが散っていったわけではなく、西軍の人々の命も多く散っていったのだということを強く感じました。
    木陰に入り、決死の覚悟で会津にやってきた彼らに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

     

     

    所在地 : 〒965-0042 福島県会津若松市大町2-1-5

     

     

    地元に大切にされ続ける会津藩士の想い 旅の締めくくりは阿弥陀寺で

     

     
    最後に訪ねたのは、西軍と戦った東軍の墓地が置かれる「阿弥陀寺」(あみだじ)です。

     

    08_aizuwakamatsu

     
    阿弥陀寺は、浄土宗の寺院で、1603年に開山されたことが始まりとされています。
    会津戦争で戦い、敗戦した会津藩士の多くがこの阿弥陀寺に眠ります。会津藩士の墓地は、前述の通り、戦争が終わった後は野ざらしにされていました。その後、当時会津藩士の埋葬箇所は、罪人が埋葬される小田山下と薬師堂河原に葬るようにと決められていたようです。取締りとして残留していた会津藩士の高津・町野は寺院に埋葬できるように民政局に嘆願。なんとか黙認するという事で、阿弥陀寺と長命寺にご遺体を埋葬する事となったようです。

    境内には、会津戦争で戦死した1300名の藩士たちが埋葬されています。現在でも春と秋のお彼岸には供養会が開かれ、多くの人々が訪れるそうです。こうして阿弥陀寺に墓が置かれるにも様々多くの人の力があったのですね。

     

    <09_aizuwakamatsu:東軍墓地菊のご紋>

     
    墓地の門には徳川家を表す立派な三つ葉葵のご紋がありました。ちなみに東軍墓地にも入ることはできません。

     

     

    <10_aizuwakamatsu:墓石>

     
    門の外からみても大きな石碑は、藩士の想いの重さを伝えてくるようでした。お墓は階段が4段分ほど盛り上がった丘になっています。会津藩士の戦死者の遺体は火葬することもなくそのまま埋葬されました。その際あまりにも遺体の多くが収まりきらず盛り上がってしまったためだそうです。

     

     

    <11_aizuwakamatsu:斎藤一の墓>

     
    付近には元新撰組三番隊隊長として有名な斎藤一のお墓もあります。斎藤一は新選組として最後まで会津藩士とともに新政府軍と戦いました。そのお墓には常に花と酒が供えられており、今でも人々の心に残っていることがよくわかります。

     

     

    <12_aizuwakamatsu:御三階>

     
    そして奥にあるのが、御三階(ごさんかい)。会津戦争後に取り壊しが決まった鶴ヶ城から払い下げられたものです。なんと会津戦争中に一度阿弥陀寺の本堂が焼失したため、鶴ヶ城の小天守だった御三階を仮本堂としていました。そのため、今でも鶴ヶ城の御三階が境内には残っています。
    ちなみに鶴ヶ城の現存する唯一の遺構で、見た目は3階建てですが実は4階で、当時は密議の際に使用されていました。

    土日のみ、内部が公開されていて、貴重なものを多く見ることができます。
    会津戦争後に謹慎を解かれた容保は、まず東軍墓地に訪れ仲間に挨拶をした後、この御三階で食事をとったと言われています。

    会津藩士と、斎藤一と松平容保。それぞれの想いが混在するこの場所は、なんとも言えない空間です。
    旅の締めくくりとして、彼らの想いを感じてみてください。

     

     

    所在地 : 〒965-0044 福島県会津若松市七日町4-20

     

     
    会津戦争の後に待ち受けていた悲劇の歴史をたどる旅はいかがでしたか。そこには多くの想いが紡がれており、今でも多くの人が訪れ手を合わせていました。
    いま私たちが平穏に生きている裏には日本のためにと信じた道を全力で駆け抜けた戦士たちがいるということを深く感じます。
    ぜひ旅の終わりに訪れてみてください。

     

     

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