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大政奉還の表明が行われた二条城 幕末の歴史が動いた場所へ

  • 1603年、徳川家康によって造営された元離宮二条城。
    市バス・地下鉄「二条城前」すぐのところにあり、連日多くの観光客が訪れます。
    今回は大政奉還の舞台ともなった二条城の知られざる歴史に迫ります。

     

     

    徳川家康が京都に二条城を造営した「真の理由」とは

     

     

    二の丸御殿で入口として使われている車寄

     

     

    豪華絢爛な二条城。
    「徳川家康が京都で宿泊するために造営された」城として知られていますが、その裏には2つの意味があります。

     

     

    1つ目は朝廷の監視です。
    二条城から北東に約2.5kmのところに朝廷の中心「」が位置し、二条城の天守から京都御所を眺めることができました。
    いつも誰かに見られていると思うと、自分の所作ひとつひとつにも気を配りますよね。
    四六時中見張っていなくとも、朝廷側に緊張感を与えていたのでしょう。

     

     

    2つ目は豊臣家への警戒です。
    1600年の関ヶ原の戦いで敗北した豊臣家は、天下統一を果たした栄光の時代から一気に摂津・和泉・河内の3国を支配する大名に転落しました。
    戦国時代を経験した家康は下剋上や復讐によって滅ぼされてきた人を見てきたはず。
    支配圏がせまくなったからといって、そう簡単に豊臣家から目は話せませんよね。
    また天下統一を果たした豊臣家に仕えてきた人々は、変わらず豊臣家に忠誠心を持っていたと考えられています。
    そうなれば豊臣家の支配圏である摂津・和泉・河内からそう遠くはない位置に城を築くことで、万が一に備える理由もわかります。

     

     
    二条城から京都御所まで歩いて向かう観光客の方もたくさんいらっしゃいました。
    お時間のある方は、幕府と朝廷との関係や違いをよりいっそう肌で感じれますので、ぜひ合わせてお楽しみください。

     

     

    二条城で迎えた江戸幕府のターニングポイント~家康と秀頼の会見~

     

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    二条城は家康が築城して以来、江戸幕府の栄枯盛衰を見守り続けました。
    栄枯盛衰の歴史の中で、1つのターニングポイントとなったのが「二条城会見」です。
    家康は世に豊臣家と徳川家の力関係を示そうと二条城で会見を開いたとされています。

    1611年、水尾天皇の即位式があるため家康は京都へとやってきました。
    その際に秀頼を二条城に呼びます。
    そこで秀頼は家康に対して「あいさつ」をしたことで、豊臣家は徳川家よりも下の地位であると示されました。

    当時のあいさつは「真(しん)・行(ぎょう)・草(そう)」の大きく3つ。
    おそらく二条城会見で秀頼が行ったのは「真」のあいさつであったと考えられます。
    「真」は、畳に座って親指を広げ、人差し指と中指を合わせてひし形を作り、そのひし形の真ん中に顔を伏せて、畳に鼻をすりつけるように平伏という礼です。
    真は最高に丁寧な礼とされ、身分の高い人にするものでした。
    そのため秀頼が家康に礼をすることで、両家の上下関係が示されたと言われているんですね。

    この二条城会見で徳川家が豊臣家よりも優位にあると示した一方、家康は秀頼の立派な一面から恐怖を感じ「豊臣家滅亡」へと歩んでいったという説もあります。
    二条城会見が行われたとされるのは、二の丸御殿の「遠侍(とおざむらい)」というお部屋。
    遠侍のお部屋を見学されるときは、当時の様子を想像してみてくださいね。

     

     

    徳川慶喜はなぜ大政奉還を二条城で表明したのか その真相に迫る

     

     

    黒い石に囲まれた池を中心にした庭園

     


    1867年徳川慶喜の大政奉還によって、約260年続いた江戸幕府の歴史は幕を閉じました。
    二条城は大政奉還の舞台として知られていますが、正確には大政奉還が「行われた」場所ではなく、「表明された」場所です。
    なぜ京都の二条城で表明されたのでしょうか。

     

     

    1864年慶喜は「禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)」という、京都御所を監視する役職に任命されます。
    2年後、第14代江戸幕府将軍徳川家茂が第二次長州征伐のため大阪城に入ったものの病で息を引き取ります。
    当時討幕運動が盛んになり、第二次長州征伐では幕府の力のなさが露呈し、ますます幕府は窮地へと陥っていました。
    慶喜が京都にいたことと、緊迫した状況から、慶喜の第15代将軍の任命は江戸ではなく京都二条城で行われたのです。
    それ以後も江戸へと戻る余裕はなく、そのまま二条城にとどまり、討幕運動との戦いがはじまりました。
    このままでは幕府どころか慶喜自身や周りの者の命を守ることはできないと思った慶喜。
    慶喜は政権を朝廷へと返すことで、ひとまず危機的状況を脱しようとします。
    そうして二条城にて大政奉還の表明がなされたのです。

     

     

    ちなみに近年の調査から、慶喜の前に大名が並んでいる邨田丹陵の「」に描かれている形ではなかった可能性が高くなっています。
    実際には二の丸御殿の大広間に大名約50人が集まり、老中 板倉勝静が文書によって皆に表明したのではないかと考えられています。
    その後に土佐藩の後藤象二郎を含む約6名が残って慶喜と話し合いをしたという記述も見つかりました。

    歴史が動いた二の丸御殿の大広間、二条城を見学される際には外せないスポットです。

     

     

    二条城の知られざる歴史の背景を知ると、二条城を実際に見るときの感動はいっそうすばらしいことでしょう。
    市バス・地下鉄ともにアクセスが良く、時期によってはプロジェクションマッピングや見事な桜も見られます。
    次のお休みには約260年の江戸幕府の歴史を二条城から見てみませんか。