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【日本の貨幣の歴史】橋本庄三郎が貨幣を変えた

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    日本橋の金座・銀座の設立に携わった橋本庄三郎の物語。庄三郎は太閤の吹立御用(貨幣鋳造)役の後藤家に雇われた職人でありましたが、家康の目に留まり、いずれ後藤家の猶子となります。
    やがては後藤本家をしのぎ、徳川家で貨幣鋳造の中心人物となります。
    小判は徳川の権威で発行されており、ひとつひとつ天秤で計る貨幣でなく、今では当たり前の計数貨幣でした。当時としては画期的で、貨幣での全国統一を成し遂げます。

     

     

     

    日本の貨幣の歴史について

     

     

     

     

    日本における貨幣の歴史を見ていきましょう。683年「富本銭(ふほんせん)」といって、中国の「 開元通宝(かいげんつうほう)」をモデルとして作られました。
    富本銭は残念ながら一部の地域で使用され、広く流通はしませんでした。

     

     

     

    富本銭の次に出てきた貨幣は、「和同開珎」。
    和同開珎は、富本銭と違い、はじめて日本で流通した貨幣と言われています。
    708年奈良時代のはじめに当時の朝廷があった平城京でその和銅を元に流通貨幣として造られました。直径が約2.4センチの5円玉のように真ん中に穴が空いています。

     

     

     

    その後、 豊臣秀吉が金・ 銀貨幣をつくるまでの約600年間もの間、 日本で 貨幣がつくられることはなく、 中国からの輸入した 貨幣がつかわれていました。
    1588年、豊臣秀吉が、「天正長大判」や「天正菱大判」などをつくります。

     

     

    写真は「天正長大判」。こちら日本銀行金融研究所貨幣博物館からお借りしました。

    まずは表から。

     

    02_chiyodaku

    (写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館)

     

     

    続いて裏がこちら!

     

    02_chiyodaku大正長大判

    (写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館)

     

     
    大判は小判とちがって1枚で8万円ほどの価値がありました。市場に出回るにはあまりに額面が大きく、利便性はありませんでした。

    その使用用途は、金塊のような形で貯蓄としてそれぞれの家に眠っていたのだとか。

     

     

    この頃までは、まだ貨幣は全国で統一されておらず、徳川家康がはじめて貨幣の統一をなしとげたといわれています。

     

     

     

     

    秤量貨幣から計数貨幣に

     

     

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    徳川家康が成し遂げた貨幣の全国統一は、秤量貨幣から計数貨幣にすることで、成し遂げらました。

     

     

     

    計数貨幣とは
    計数貨幣は、現在と同じで「枚数」で数えられるものです。
    金貨であれば「小判一枚で支払う」ということができる仕組です。ちなみに小銭である寛永通宝も、計数貨幣です。
    一定の形状をもち、一定の品位と重量を刻印で保証した通貨、江戸時代に発行された、大判や小判などがこれにあたります。

     

     
    秤量貨幣とは
    秤量貨幣は、「重さ」で数えられるものです。
    秤量貨幣は、金属を重さで量って貨幣として使用したものです。そのため、貫(かん)や匁(もんめ)などの重さが、単位として使われました。金属の価値と貨幣の金額が等しい貨幣です。

     

     

     

    家康が統一した貨幣によって、計数貨幣(鋳造貨幣)での取引が出来るようになります。
    計数貨幣は、金貨の価値とは関係なく、信用貨幣(しんようかへい)としての性質を持っていました。
    信用貨幣とは、管理通貨制度の下で発行される、金貨との交換を保証しない貨幣のことです。国の信用で流通するお金なので、信用貨幣といいます。

     

     

    近代の貨幣について

     

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    さて、ここからは、近代における貨幣の流通を見ていきます。
    明治政府によって貨幣制度が整備され、「円」が誕生しました。

     

     

     

    明治新政府は当初、通貨制度を整備するまでのゆとりがなかったため、幕藩時代の金銀銭貨や藩札をそのまま通用させる一方、通貨不足解消のために自らも太政官札や民部省札などを発行し、さらには民間の為替会社にも紙幣を発行させました。

     

     

     

    このため、各種通貨間の交換比率が非常に複雑になり、また偽造金貨、紙幣も横行するなど通貨制度は混乱をきわめてしまします。

     

     

     

     

    新政府は貨幣制度の統一を目指して、1871年に「新貨条例」を制定しました。金貨を貨幣の基本とし、単位も「両」から「円」にあらため、10進法を採用するというものです。
    もっとも本位貨幣である金貨とは別に外国との貿易用に貿易銀として1円銀貨を通用させたので、金本位制をうたいながら実質的には金銀複本位制が採られていました。

     

     

    そして1872年に、政府は旧紙幣を回収し、流通している紙幣を統一するために、新紙幣「明治通宝」を発行しました。当時の日本には技術がなかったことから、ドイツの印刷業者に原版の製造を依頼しました。このため、この新紙幣は「ゲルマン紙幣」とも呼ばれていました。

     

     

    「明治通宝」に偽造が多発したことから、政府は1881年にデザインを一新した改造紙幣を発行しました。日本で最初の肖像画入りの政府紙幣で、神功皇后の肖像が描かれています。肖像の作者はイタリア人だったため、肖像の風貌は外国女性風になっているのだとか。

     

     

    ちなみに日本銀行金融研究所貨幣博物館よりお借りした写真は、旧十円紙幣。1885年に発行が開始されました。日本銀行券の中で最初(最古)のものだそうです。

     

     

    驚くことに、紙幣の強度を高めるためにコンニャク粉が混ぜられていたのだとか!

     

     

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    (写真提供:日本銀行金融研究所貨幣博物館)

     

     

     

     

    日本の貨幣の歴史をみてきましたが、いかがでしたか。
    これまで様々形を変えてきている貨幣ですが、時代の節目で大きく変化してきたことがわかりますね。
    仮想通貨なども出てきていますが、今後お金は、どんな風に形を変えていくのでしょうか。