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【橋本庄三郎と貨幣戦争】豊臣家と徳川家のもうひとつの戦い

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    徳川家康は、豊臣政権時代、豊臣秀吉の命により、1590年に関東への国替えすることになります。当時荒れ果てた関東に移り、ここに新たな都市をつくることを計画します。
    そこで、大阪を中心に上方で流通していた貨幣のほかに、関東で新しい貨幣を鋳造し、関東から貨幣を統一させようと、家康はもくろみました。
    家康の家臣として活躍した橋本庄三郎という人物を追っていきます!

     

     

     

    足利家の御用彫金師であった後藤四郎兵衛とは

     

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    橋本庄三郎を語る上で欠かせない名家。後藤四郎兵衛。
    室町時代から代々続く彫金師の名家です。なんと足利家の御用彫金師でもありました。

     

     
    刀の装飾をはじめとして、様々な刀装具小道具を担当していました。
    当主は、後藤四郎兵衛を通称とします。後藤家は、織田信長や豊臣秀吉にも大判を作っていました。

     

     

     

     

    後藤家は、初代祐乗が室町後期に現われてから江戸時代が終わるまでの約400年間、宗家や分家などが金工界をリードして行きました。分派したのは5代徳乗からで14家に分かれていきました。 分家には後に金座や分銅役所の預かりとなったので、経済や財政にも大きく関わっていくことになります。

     

     

     

     

    橋本庄三郎とは

     

     

     

     
    豊臣政権時代に、徳川家康は、関東で江戸独自の貨幣を作成するために、彫金師の名家であった後藤家を頼りますが、後藤家から遣わされたのは、当時後藤家が雇っていた橋本庄三郎という人物でした。
    足利家の御用彫金師であった後藤家の流れをくむ橋本庄三郎(のちの後藤庄三郎光次)が、徳川家康によって江戸に招かれ、ここで金貨の製造を統括したのです。

     

     

     

    しかしこの庄三郎。後藤家よりも高い技術を持つ人物だったのです。
    後藤家の者よりも知識が豊富で、なんと後藤家が2年かけても造ることができなかった大判を数か月で完成させることができたのです。

     

     

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    江戸時代には、金貨、銀貨、銭貨の3種類の鋳造貨幣が使用され、それぞれ金座、、銭座といった別々の場所で鋳造されていました。

     

     

     

    豊臣との経済戦争

     

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    豊臣政権時には、大判が一般的でした。あまりにも大きく、現在でいうところの金塊のようなものだったので、貨幣として流通することはありませんでした。

     

     

     

    そもそも秀吉は、一般市場での流通をねらったものではなく、家臣への褒章や茶人への贈呈といったような特殊な用途しか想定しておらず、貨幣というよりも、貴金属に近いものでした。
    そこで家康は、貨幣の流通を目的に、1両小判を造ります。この1両小判は、日常的な大口取引にはぴったり!のちに、その使いやすさから橋本庄三郎が作成した小判は、全国で率いられることになりました。

     

     

    豊臣秀吉との経済戦争に、徳川家康が勝利した瞬間でした。

     

     

     

     

    いかがでしたか。家康が関東に国替えをしたことからはじまった豊臣との経済戦争。その中の貨幣ひとつをとっても、そこには人間のドラマがあり、歴史の面白さを感じることができますね。
    日本橋や銀座を歩く際には、ぜひ想いを馳せてみてはいかがでしょうか。