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東海道五十三次の宿場町をめぐる~滋賀県甲賀「水口宿」~

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    東海道五十三次のうち、江戸日本橋から数えて50番目にあたる「水口宿」。

    最盛期には「街道一の人とめ場」と言われるほど、多くの人々が水口宿で時を過ごしていました。
    今回はそんな江戸が魅了された水口宿の見どころや、徳川家とのつながりをお届けします。

     

     

    かつて「街道一の人とめ場」と言われた東海道五十三次 水口宿を知る

     

     

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    江戸時代に東海道に沿って置かれた53の宿場「東海道五十三次」。
    水口宿(みなくちしゅく)は、かつての近江国甲賀郡にあった東海道五十三次の50番目の宿場です。
    現在は滋賀県甲賀市水口町に位置し、同じ甲賀市にある土山宿とともに、宿場町の景色を残す町並みが人気となっています。

     

    水口宿の最寄り駅となる「水口石橋駅」を境にして、東側は宿場町、西側は水口城の城下町が形成されていました。
    水口宿は「街道一の人とめ場」と言われるほど、人々が訪れ栄えていました。1843年には、水口宿に家が692軒、本陣、脇本陣が一つずつと旅籠が41軒もあったそうです。ちなみにお隣の土山宿は家が351軒、本陣二つ、旅籠が44軒でした。
    土山宿と比べると、家の数が圧倒的に多く、当時の繁栄がうかがえます。

     

    水口宿の繁栄に一役買ったのが、水口宿の名物「かんぴょう」です。
    歌川広重の作品「」にも、青空の下でかんぴょうを作っている風景が描かれています。
    この作品によって、「水口かんぴょう」は一躍世に知られることなりました。

     

    食以外にも水口宿を語るには欠かせない、一大産業がありました。それは幻の「水口細工」。幕末には約7万点以上もの水口細工を用いた商品が生産され、開国後は海外にも輸出していました。
    ところが昭和に入って職人の転職が相次いで、いつの間にか技術も材料もわからない「幻」となってしまいます。近年研究を重ねて技術と材料を発見し、水口細工復活に向けて活動されている地元の方々もいらっしゃるそうです。

     

    今回はそのような「街道一の人とめ場」水口宿で、当時の姿を探しに行きます。

     

    水口宿にあるスポットの見どころ

    宿場町と城下町、両方の名残がある水口宿。それをよく表しているのが、水口宿の東端にある「東見付跡」です。
    1682年に水口藩が成立して以降、水口宿の東西入口には警備も整えられていきました。「見付」とは、城下町や宿場町において往来する人を見張る番兵が置かれた場所のこと。江戸側は江戸見付、京都側は上方見付と呼びます。
    1716-1736年間の絵図によると、水口宿の東見付は外敵を防ぐために二度直角に路を曲げる「枡形(ますがた)」の手法が取られており、土居もめぐらされていました。厳重に警備体制が敷かれていたことがうかがえます。西側にも同じく西見付が設置されていました。

     

    東見付跡から南西に約280m歩くと、水口宿本陣跡に着きます。本陣は旅籠とは違い、一部の身分の高い人のみが宿泊できる場所でした。そのため間口も通常の約3軒分もの規模で、門、玄関、書院などをもっています。
    水口宿本陣は代々鵜飼氏が経営にあたっていました。水口の古い家柄である鵜飼氏は、領主階級の証ともいえる「名字帯刀」を許された人物です。1869年の明治天皇宿泊をもって、水口宿本陣の歴史は幕を下ろしました。

     

    水口宿本陣跡から北西へ約350mのところには、宿場町ならではの「問屋場跡」があります。問屋場は、お仕事で旅をしている人の荷物を次の宿場へと運ぶために、馬や人を用意していた場所です。宿場の中核的施設であることから、宿内の有力者が宿役人となって、運営していました。

     

    水口宿は東見付から西見付まで約2.5㎞あり、東海道に沿って歩くと約30分ほど。道中には石碑や看板などもあります。
    小休憩を入れながら、旅人の気分でひとつひとつゆっくりとご覧くださいね。

     

    大徳寺と水口城跡から見える 徳川家と水口宿のつながり

     

     

    <写真09_alt:東海道五十番目の宿場町 水口宿>

    大徳寺は大岡山の山麓に位置する、僧・叡誉(えいよ)が創建した浄土宗のお寺です。徳川家康は幼少期に叡誉から学問を教っていたこともあり、家康が京都へ行く際には大徳寺に立ち寄ったといわれています。
    いまも大徳寺には、それ以降続く家康や徳川家とのつながりを感じるものが多く残されています。まずは山号の「家松山」です。家康の「家」と家康の旧姓・松平の「松」をとって、家康が授けました。さらに家康は、叡誉の跡を継いだ岌誉(きゅうよ)のときに、大徳寺の寺号や香木、寺領を寄進しています。
    続いては大徳寺の山門に刻まれた「三つ葉葵」に注目。
    「三つ葉葵」は徳川家の家紋であり、大徳寺と家康との深いつながりを表していると言えますね。境内には、叡誉と話していた家康が腰掛けたと伝わる「腰掛石」もあります。昔話に花を咲かせていたかもしれませんね。

     

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    そして3代将軍家光とのつながりを示すのが水口城。

    水口城のはじまりは防衛拠点でも権力誇示でもなく、京都へ行く際に利用する徳川家光専用の宿でした。
    堀と石垣がめぐる本丸と北側の二の丸で構成されており、京都の二条城に類似したつくりであったそうです。
    しかし実際に宿として使われたのはたった1回で、その後は幕府によって管理されていました。
    水口藩が成立してからも、「江戸幕府からお借りしている城」ということで御殿は一切使用せず、丁重に扱われていました。
    明治維新で廃城となり失われた部分もありますが、修復や復元が進み往時の姿を伝える貴重な建造物となっています。
    水口藩が徳川家・江戸幕府をどれほど篤く敬っていたかを想像しながら、散策してみてください。

     

     

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    江戸時代の人々が水口宿に魅了された理由、感じていただけましたでしょうか。
    当時の繁栄を思い浮かべながら、東見付から風情ある町並みを歩けば、もう江戸時代の旅人気分です。
    お時間がある方は、ぜひ一泊して同じ甲賀市内に隣接する土山宿へも足を運んでみてくださいね。

     

     

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