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小樽経済を潤わせたニシン漁で発展!豪商「青山留吉」の旧青山別邸

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    小樽で観光をするなら行きたい豪商の館、小樽迎賓館「旧青山別邸」。その美しい建物の裏には、日本の近代化を支えたニシン漁で豪商に上り詰めた青山留吉氏(とめきち)の人生がありました。彼の人生とともに小樽迎賓館「旧青山別邸」の魅力にせまります!

     

     

     

    近代化を支えたニシン漁と今に残る遺構 小樽運河や北のウォール街

     
    現在、小樽には年間800万人もの人が訪れます。小樽運河や、北のウォール街など主要な観光地がある上に美味しい食事などが訪れる旅行者を楽しませます!実は小樽運河や銀行が建ち並ぶ北のウォール街は、ニシン漁なくしては存在しなかったかもしれない事実をご存知でしょうか?

     

    ニシン漁が栄えたことや、石炭の交易をおこなう際に小樽港が利用されるようになったことで、小樽運河が整えられ、交易や海運業に必要な為替や保険などの機能が求められ銀行街ができ、いつしか北のウォール街とよばれるようになります。そうして小樽は活気付いていきました。

    ところで小樽の発展につながったニシン。なぜそんなにも需要があったか、ご存知でしょうか?日本の近代に本州では農産物の収穫を増やすための肥料にイワシを使用していました。ところがイワシが不漁になり、代わりに蝦夷地(北海道)でとれるニシンを肥料として使うようになったのです。

     

    そうして北海道以外の場所から多くの漁夫が小樽に集まってくるようになります。その中の漁夫のひとり、青山留吉(とめきち)は、ほかの漁夫たちよりもずいぶんとニシン漁で成功しました。そんな成功者である青山留吉にフォーカスして豪商の暮らしと人生をたどってみましょう!

     

    なぜ青山留吉だけが、ニシン漁でこれほど繁栄できたのか

     

     

    <写真01otaru 小樽貴賓館>

     

     

    ニシン漁で莫大な富を築いた青山留吉。留吉は、最終的に漁場15ケ箇所、漁船130隻、使用人300人を有する道内有数の漁業家に成長し、一代で小樽の三大網元と呼ばれるほどまでになりました。
    しかし幼い頃から順風満帆な人生とはいえなかったようです。

     

    留吉は、1836年に山形県庄内地方遊佐郷青塚村に生まれました。1859年の冬、留吉は24歳で北海道へ渡り小樽市祝津で雇漁夫として働くことになります。1年後には、小規模ながら同地に漁場を開き、明治期の豊漁もあって次々漁場を拡大します。同じような漁夫は多く居りましたが、留吉ほどに拡大し富を得た人はいなかったようです。
    その理由は、当時革新的であった留吉の工夫にありました。

     

    通常、ニシン漁は、ニシンの群来を待ち受け、沖に建網を張ります。網の一組を網一ヵ統と呼び、網一ヵ統ごとに漁夫を2、30人ほど必要とします。 ニシン漁は、1年間のうちたった4ヶ月に限られます。そのため、ニシン漁夫は2月頃に東北からやって来て、漁期の終わる6月頃再度東北に引き上げていくやり方でした。

     

    しかし留吉はここで違うやり方をとります。1年間のうち4ヶ月のみ東北からのニシン漁夫を迎えるに限らず、彼らの生活を支えるため、年間を通して雇いました。漁夫らのために農地を買い上げ、自給自足できるようにしたのです。4ヶ月のニシン漁を終えると、残りの8ヶ月は農作業や植林、造園に携わる仕組みが出来上がりました。
    つまり、経験のある漁夫を雇い続けることが出来るのです。留吉は、他の網元に比べ、経験のある漁夫を雇うことで大量のニシンをとることができ、成功しました。

     

    1908年、73歳で留吉は故郷の庄内青山邸に戻り隠居します。1916年4月19日、81歳で生涯を閉じることになります。北海道小樽市にはそんな留吉の別邸が残ります。留吉に想いを馳せ、さっそく訪れてみましょう。

     

    小樽がニシン漁で栄えた際に誕生した旧青山別邸(小樽貴賓館)とは

     

     

     

    <写真03otaru 館内>

     
    函館本線JR小樽駅から車で約10分の祝津(しゅくず)方面にある、旧青山別邸を訪れました。旧青山別邸は、三代目政恵(まさえ)が17歳の時、山形県酒田市にある本間邸に魅せられ、約30億の建築費をかけ完成させたお客様をもてなすための別邸となっています。
    約1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室もあります。

     

    邸内で使用している木材はほとんどが北海道では自生していないものを使用しています。これは最高の素材をもとめた青山氏のこだわりであり、北前船で運ばれたものとなっています。
    さらに母屋はすべて漆塗りなど木材の使い方というのも見所のひとつとなっています。

     

    <写真04otaru  仙人の間>

     

     

     

    特に廊下の端から端まで12.6メートルを継ぎ目なしで作られた一本物と呼ばれる柱は圧巻。

     

     
    <写真05otaru 一本物>

     

     
    展示物は二階まであり、各部屋ごとの展示物はそれぞれ意味があるということを知りました。花の間は政惠氏が当時こよなく愛した牡丹の花を人の一生にたとえたものとなっています。
    非常に豪華なつくりとなっているのでガイドさんに案内してもらい、展示物の意味を学びながら回ると、より理解が深まります!

     
    いかに多くのお金をかけ、この空間を作り出したかがわかりました。

    所在地:北海道小樽市祝津3丁目63

     

     

    <写真06otaru 花>

     

     

     

     

     

    いかがでしたか?小樽の成功者である青山留吉とその想いを引き継ぎ今に伝える青文家。
    青山家の当主達の想いを紡ぎ続ける旧青山別邸を訪れてみてはいかがでしょうか。

     

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