HISTRIP(ヒストリップ)|歴史的建造物に泊まろう

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涙すること間違いなし 知覧特攻平和会館で隊員の最後に触れる

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    終戦間際、南方への前線基地である鹿児島の知覧(ちらん)からは特別特攻隊が出撃し、439名もの若き勇敢な命が散っていきました。
    戦後70年を経た今も知覧には戦争の爪痕が当時のまま残っています。戦争遺跡や資料に耳を傾け、自らの眼で、歴史の真実を見つめてみませんか。

     

     

    多くの悲劇を生んだ特攻隊のはじまりの歴史とは

     

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    鹿児島県知覧では、最南端の特攻基地として、第二次世界大戦時439名もの勇者たちが戦死しました。特攻で散っていった勇者たちの年齢は17歳から32歳。平均年齢なんと21.6か月です。

     

     

    このような悲劇が起きた発端をご存知でしょうか。それは、第二次世界大戦末期、大日本帝国海軍が航空機が搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む「神風特別攻撃隊」(特攻隊)を考え出したのが始まりでした。
    特攻の作戦は、1944年10月、フィリピン戦線で初めて決行されました。海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈、ほかの1隻にも損害を与えたそうです。
    アメリカ軍は、大打撃から特攻の意図を知り対処を進めました。その結果、特攻隊は目標に体当たりするどころか、近づくことさえ困難になったそうです。

     

     

    対策を取られた後も日本は特攻をやめず、約4000人の英霊が散華されました。
    特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、統治していた台湾など多くの基地から出撃していました。にもかかわらず、なぜ知覧に知覧平和会館があるのかというと、知覧基地が本土最南端で、最も多くの特攻が出撃したからです。全特攻戦死者1036名のうち、439名、全員の半数近くが知覧基地から出撃したため、ここで祀られています。

    涙なしにいられない「知覧特攻平和会館」特攻隊員の遺書から知る過去

     

     

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    鹿児島空港から約1時間。知覧武家屋敷からバスで約10分。特攻隊資料が展示してある平和会館までの道には、約120本の桜並木が咲く桜の名所があります。
    そんな美しい桜並木を通っていくと、「知覧特攻平和会館」が見えてきました。

     


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    特攻平和会館には、特攻隊員が特攻直前に書き残した遺書や絶筆の数々、使用されていた戦闘機、震洋船の説明と展示室などがあります。
    遺書展示室には、様々な人を大切に思い、最後の言葉を必死につづっている手紙ばかりでした。特に印象に残った手紙の一筆を紹介します。
    当時23歳の穴沢大尉が特攻の当日に書いた大学時代に将来を約束した婚約者に宛てた手紙です。

     

     
    「婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言っていきたい。
    あなたの幸せを願う以外なにもない。
    あなたは過去に生きるのではない。
    勇気をもって過去を忘れるのです。穴沢は現在にはいない。あなたは現実を生きろ。…

    会いたい。無性に話したい。穴沢は笑っていきます。」

     

     
    つい100年も経っていない過去に、このようなことがあったとは、信じられません。目の前にあるひとつひとつの事実に向き合うことは、喉が締め付けられるようでした。
    遺書展示室は涙なしには立ち入れない場所です。

     

     

    所在地 : 897-0302鹿児島県南九州市知覧町郡17881番地

    公式HP : 知覧特攻平和会館

     

     

    特攻勇士を顕彰し恒久平和を祈願する静かな館「特攻平和観音堂」

     

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    平和会館から徒歩約1分。知覧特攻平和会館のすぐ近くにある「特攻平和観音堂」に到着しました。特攻で戦死した方たちの名前が入った灯篭が平和観音堂に行く道に立ち並んでします。

     
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    特攻平和観音堂の中に入ると、金色をした優しいお顔の観音様が静かに佇んでおられました。1955年に、大和法隆寺の秘仏であった夢ちがい観音像を特別のお許しを受けて謹鋳したものです。沢山の戦争で亡くなった命を癒し、恒久平和を願う象徴として祀られています。

    この観音像、実は今この姿になるまで、ある市民の尽力によるものが大いにありました。その人物とは特攻隊員が「お母さん」と慕っていた軍指定食堂だった冨屋食堂のおかみ鳥濱トメです。

    さらに鳥濱トメについて知りたい方はこちら→【生きることを学ぶ場所「富屋旅館」特攻隊員の母 鳥濱トメの歴史

     

     

    終戦の翌年、1946年。知覧飛行場で、残っていた飛行機が燃やされることになりました。飛行機を燃やすと聞いたトメは、隊員たちの思いがこもり「形見」でもある飛行機に別れを告げるために飛行場へ出向いたそうです。そこは荒れ野と化し、特攻機がスクラップにされて山積みされていました。「特攻隊員たちが自らのたった一つしかない命をかけた顛末を見て、トメはその残骸の遠景に向かって手を合わせたそうです。トメは落ちていた棒くいを何かの縁だろうからと拾いあげ、特攻基地跡の地面にその棒を立て、それに向けてお参りを始めました。

     
    墓を建てず、棒切れにお参りをしたのには、訳がありました。特攻は「軍国主義の象徴」と忌み嫌われるようになり堂々と慰霊碑を建てることなど、できなかったそうです。
    そのためトメは、その棒を隊員たちの墓標代わりにして毎日お参りしました。

     

     

    自ら私財をうって特攻隊員の慰霊をつくることはできましたが、公的になすべきだという考えから、トメは毎日棒杭参りを続けながら観音像建立を請願するために足繁く役場へ通い町長を説得しました。熱意がようやく通じ建立が決まり、1955年9月28日、観音像が完成。その観音像がいま目の前にある観音像だそうです。

    観音様の優しく光り輝く姿と、穏やかな表情に心の底から癒されることができ、真に平和を祈ることができました。

     

     

     

    約70年の月日を経て、今も語り継がれる勇者たちの魂と生きた証が残る知覧特攻平和会館を訪れる旅はいかがでしたでしょうか。神風特攻隊の歴史を知ることは今の私たちを見つめなおすきっかけにもなります。
    ぜひ知覧に訪れて、過去を学び今の幸せを知り未来に平和を祈りましょう。