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海援隊本部跡「京都酢屋」─坂本龍馬が拠点にした部屋を再現─

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    坂本龍馬が願った新国家への道。その集大成となる「大政奉還」は京都二条城で行われました。
    龍馬はその歴史的瞬間を見ることなく命を絶ちましたが、大政奉還に至るまで京都で活動を続けていたのです。
    今回は龍馬の活動を追って、龍馬が身を寄せていた酢屋を訪れました。

     

     

     

    坂本龍馬と約300年の歴史をもつ京都酢屋の関係とは

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    龍馬通に面する「酢屋」は、1721年から約300年続く材木商です。
    表から木で造られた工芸品が並んでいるのが見えます。
    酢屋の1階は木工品のお店。
    2階は「ギャラリー龍馬」として、龍馬をかくまっていた部屋を復元し、龍馬ゆかりの品を展示しています。

     

     

    大政奉還に向けて全国行脚をしていた龍馬は、1867年6月9日に京都へとやってきました。
    酢屋の6代目酢屋嘉兵衛は、龍馬の維新への志に理解を示して、幕府および倒幕急進派から追われていた龍馬をかくまいます。
    龍馬は酢屋にいる間、見つからないように「才谷さん」と呼ばれていました。
    当時、龍馬をかくまうということは店の命運をかけた大変なことであり、昭和になってもそのことを口にすることはなかったそうです。

     

     

    龍馬は酢屋に海援隊の京都本部を置き、陸奥宗光や長岡謙吉といった海援隊のメンバーも身を寄せました。
    維新後、陸奥宗光は酢屋の家を訪れる時、当時を思い感概にむせんだと言われています。

     

     

    2階には龍馬たちが過ごした部屋が復元されているので、当時の様子を思い浮かべながら龍馬ゆかりの品々を眺めてみてはいかがですか。
    展示品のなかには、当時から残っている引き出しや妻 乙女に宛てた手紙など、龍馬の暮らしを彷彿させるものもありますよ。

     

     

     

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    なぜ龍馬は海援隊の京都本部に「酢屋」を選んだのか その真相に迫る

     

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    酢屋の2階から向かいの舟入に向けて、龍馬が拳銃の試し撃ちをしたというエピソードも伝えられています。
    海援隊は武器、軍艦などの兵器の斡旋をする日本初の株式会社といわれる貿易結社です。
    海援隊の京都本部でもあった酢屋で、そういったエピソードがあるのも納得ですね。

     

     

    ではなぜ酢屋に海援隊の京都本部を置いたのでしょうか。
    その理由としては酢屋の立地が考えられます。

     

     

     

     

     

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    酢屋のすぐ東に高瀬川が流れており、店の前には舟入が設けられ、高瀬舟が出入りしていました。
    京都と伏見の間を行き来し、舟運の利便性から多くの藩邸が並んでいたそうです。
    そんな商売に向いた場所を見逃さなかった海援隊、さすがですね。
    龍馬を守ることを決めた酢屋の6代目酢屋嘉兵衛も、高瀬川の木材独占輸送権を得て、繁栄した経緯があります。
    龍馬たちの維新への志はもちろんですが、龍馬の企業家としての先見の明を感じていたのかもしれませんね。

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    維新に向けて各地で活動を広めていた龍馬。
    京都酢屋での暮らしはいったいどのようなものだったのでしょうか。
    ぜひ龍馬が過ごした部屋で、龍馬の暮らしに思いを馳せてみては。