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奈良県斑鳩 法隆寺周辺の隠れた名所 「宮大工の町」を散策

  • 法隆寺で有名な奈良県斑鳩町には、まだまだ知られていない隠れた名所がたくさんあります。
    今回は斑鳩のまだ見ぬ魅力にせまるぶらり旅。
    法隆寺建立の裏舞台や、能楽と斑鳩の関係、有名小説家とお寺など、聞いたら思わず話したくなる情報盛りだくさんでお届けします。

     

    宮大工の町 斑鳩西里で感じる法隆寺建立の歴史

     

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    法隆寺の西に広がる「西里」。西里にはかつて法隆寺建立に携わった宮大工たちが住んでいました。
    そのため城下町にあるような白漆喰の壁が連なる美しい町並みではなく、細い道に土色をした漆喰の低い壁が並び、どこか温かみを感じる町並みです。

     

    西里は有名な宮大工であった中井大和守正清(なかいやまとのかみまさきよ)の出身地であるといわれています。
    正清の父親である孫太夫正吉は法隆寺を建立した大工のひとりで、大阪城や京都方寺大仏殿の作事にも参加していたそうです。
    そして正清は24歳という若さで徳川家康に見初められ、徳川の御用大工として伏見城や江戸の町割り、江戸城の天守、法隆寺の大修理などの重要な事業においても大工を率いていました。
    そんな日本を代表する建築に携わった中井父子が暮らしていた西里。

    西里からも法隆寺を見ることができます。
    当時の宮大工たちもここから完成した法隆寺を眺めていたのでしょうか。

    多くの宮大工がここから法隆寺へと歩く風景を思い浮かべながら、ぜひ歩いてみてくださいね。”

     

    聖徳太子創建の社 法隆寺の守護神を祀る龍田神社とは

     

    <写真35_alt:龍田神社>

     

    法隆寺へ行かれたことのある方でも、龍田神社をご存知の方は少ないのではないのでしょうか。
    龍田神社は書物の記載が少なく、その歴史は謎に包まれています。

     

    そんな龍田神社には聖徳太子にまつわる伝説が残されいます。
    聖徳太子が法隆寺を建立するための土地を探していると、白髪の老人に化身した龍田大明神と出会いました。
    龍田大明神は聖徳太子に「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」とお告げになったそうです。
    そのお告げを聞いた聖徳太子は斑鳩の地に法隆寺を建立し、法隆寺の鎮守社として龍田大明神を祀る神社も創建したといいます。

     

    その神社が龍田神社のはじまりで、のちに龍田大社より天御柱命(あめのみはしらのみこと)と国御柱命(くにのみはしらのみこと)を勧請して合祀しました。
    龍田大社は奈良県生駒郡三郷町にある社で、聖徳太子が法隆寺の工事安全を祈願した場所です。
    お時間がある方は龍田大社へも足を運んでみてくださいね。

     
    <写真36_alt:龍田神社の中の木の板の上の説明書き>
    「金剛流発祥之地」と刻まれた石碑が建っています。
    龍田神社のある斑鳩は大和猿楽四座のひとつ「坂戸座猿楽」が生まれ、盛んに演じられていました。
    そして坂戸座猿楽は能楽の金剛流へと発展していきました。
    秋には近くで公演もあるそうです。
    ぜひ一度は観てみたいですね。

     

     

    幸田文ゆかりの法輪寺 人々の支えで災害を乗り越えた歴史に迫る

     

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    法隆寺から北へ歩いていくと左手に法輪寺、右手に法起寺が見えてきます。
    田んぼ、山、川、細い道、そして秋であれば紅葉と、自然の中に趣ある寺がうまく調和していてとても美しいです。
    今回訪れたのは法輪寺。
    絶対外せない法輪寺の見どころは講堂です。
    講堂には重要文化財の薬師如来坐像をはじめ多くの仏像が安置されており、正面からだけではなく後ろに回って観ることができます。
    なかなか仏像を後ろから見ることは少ないので貴重ですね。
    正面から、ななめから、後ろから、さまざまな角度から楽しめました。

     

    法輪寺の創建にはふたつの説があります。
    ひとつは622年に聖徳太子の病気平癒を願った山背大兄王が建立したという説。
    もうひとつは670年の斑鳩寺焼失後、百済開法師、圓明法師、下氷新物の三人が建立したという説です。
    創建時の姿を残すものはないことから、いまだ解明にいたっていません。

    現在の形が出来上がったのが1645年。
    台風で金堂・講堂・中門とほとんどの境内の建物は多大な被害を受けました。
    そこで寳祐上人が法輪寺の復興に着手し、次第にもとの姿を取り戻していきます。
    荒れた境内を見た寳祐上人は、どんな思いを持って復興を決意したのでしょうか。
    ほとんど一からの復興となる難しさと苦労を考えると、本当に大きな決断であったと思われます。

     

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    また三重塔は1944年に落雷の被害を受けて焼失し、1975年に古来からの手法を用いて復元されました。
    その復元に貢献したのが幸田文です。
    法輪寺は国宝に指定されておらず、人件費の高騰などでなかなか復元資金が用意できませんでした。
    小説「五重塔」を書いた幸田文は、自ら寄進を積極的に行い、全国行脚をして資金を集めたそうです。

     

    災害によって二度大きな被害を受け、人々の支えがあって再建を果たした法輪寺。
    その歴史に思いを馳せながら境内を散策してみては。

     

    「斑鳩の言わずと知れる名所はもう行きつくした」という方には、ぜひ訪れていただきたい「」はいかがでしたか。
    裏舞台を存分に楽しむためにも、はじめての方は法隆寺や中宮寺に訪れてからがオススメですよ。